この記事は「子宮頸がんの自覚症状が現れ始めたのは告知の3年前」の続きです。
総合病院での検査
レディースクリニックでブライダルチェックを受けた翌週、紹介状を持って総合病院を受診。とても混んでいて3時間は待ったでしょうか。その間も情緒が安定せず、何度も涙があふれ出しそうになり、ぐっと目をつぶって俯き堪えました。周りには妊婦さんも沢山居たので「子供が産めなくなるかもしれない」という絶望感でいっぱいだった私には、とてもつらい3時間でした。
総合病院で受けたのはレディースクリニックで受けたのと同じ検査(細胞診)、更に詳しく調べるためのコルポスコピー診(組織診)、そして腫瘍マーカーを測るための血液検査です。コルポスコピー診は痛いという噂だったので少し怖かったですが、深呼吸して力を抜いていたらまったく痛くありませんでした。
触診中に医師が「ん?固いところがあるな……うん、やっぱり固い」と呟いた時、自分の中で何かが壊れ、恐怖、悔しさ、後悔、怒り……といろいろな感情が渦巻き意識がぼんやりしていくのを感じました。そして「ああ、私はやっぱりがんなんだ」と、この時確信したのです。
内診後に医師は「まだがんと決まったわけじゃないから」といってくれましたが、その日のうちにMRIやCTの検査を”なるべく早く”とってくれたので、余程私のがんは大変な事になっているのだろうと恐怖感が現実的なものになりました。そして死を強く意識しました。
最初の子宮頸がんの告知
1週間後、細胞・組織、血液検査、CT検査の結果が出そろったので再び総合病院を受診。結果は恐れていた通り「子宮頸がん」、それも進行期の……。
がんだと確信していましたが、痛みが無かった事で「まだ初期かもしれない」という思いが気持ちの半分を占めていました。初期のがんであれば「子宮温存術」や「トラケレクトミー(広汎性子宮頸部摘出術)」が受けられ、子供を諦めずに済むかもしれない。もしかしたらもっと初期で「円錐切除」で済むかも、そんな希望ももっていたのです。
しかし、その希望は木っ端みじんに打ち砕かれました。医師の口からでた言葉は「子宮頸がん、それも2期以上だと思います」。不思議とその言葉を聞いても涙は出ず、目の前のものが全て夢のような、変な感覚でした。まるでなにかの神経が麻痺してしまったような。
闘病ブログやネットで情報を得ていたので「2期以上」このステージがどれほどのものか、その時すでに理解していました。頭の中では「子供が持てなくなった悲しみ」よりも「死の恐怖」が存在感を増していました。
婚約者や母が「子供が産めなくなった」と聞いたらどんなに悲しむだろうか、「こうなったからには婚約者とは別れるべきだ」、「でも、どうせ死ぬなら最期まで一緒に居たい」死の恐怖の中にそんな考えがごちゃまぜになり、目頭が熱くなるのを感じました。
婚約者や母は一生懸命私を励ましてくれました。寝れない夜が続きましたが、婚約者はいつも私が眠りに落ちるまで抱きしめ、「大丈夫、大丈夫」と耳元でささやき続けてくれたのです。婚約者とは将来子供を持つことについて話ていて、彼は子供を持つことをとても楽しみにしているようでした。また、早くに父をなくし、女手一つで、一人娘でわがまま放題だった私を育ててくれた母も、孫をみるのをとても楽しみにしていたのです。
その日は告知を受けただけで、そのまま帰る事になりました。総合病院には「腔内照射」できる放射せんの機械がなかったので、もっと大きな病院で治療を受けなくてはいけませんでした。その事が、よりいっそう私の意識を「死」に近づけました。手術ができない可能性が高いという事ですから……。
LEAVE A REPLY