この記事は「精神科病院の真実」を包み隠さず明らかにした体験記事です。
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*この文章は児童虐待の生々しい記述や過去に精神科病院で顕著に見受けられた壮絶な実態など、不快な内容が多く含まれています。
特に児童虐待や性暴力を体験された方、向精神剤の多剤処方が当たり前とされたかつての精神科医療において不当な処遇を受けたと思われている方はご注意ください。
また、あくまでも私自身の実体験をもとに構成してはいますが、すでに過去の話でもあり、医療機関そのほかが特定されないよう、細かいディテールについては敢えてファジーにしています。ご了承ください。
生真面目ということを除けば普通の少女だった私
今からおよそ35年前、私はアイドルを目指して芸能プロダクションに所属し、学業の傍らレッスンを受けている十四歳の女子中学生でした。
アイドルを目指しているとはいえ、学校の勉強も疎かにはしたくなかったので、私はレッスンから帰ると他の同級生の何倍も努力して高校受験の勉強に勤しんでいました。
実際に中学校での成績は学年で5位より下がったことなど一度もなく、だからこそ学校としても私の芸能活動を容認していたといえます。しかしながら今振り返れば、そういう私の気質は元々ものすごく真面目であり、真面目過ぎるがゆえに完璧主義で、All or Nothingのいわゆる「黒白思想」しかできない性格だったとは思います。
ちょうどその頃、私と姉はある夫婦に養子縁組という形で引き取られました。
大学生である姉のほうはすでに成人していて、姉自身の意思での養子縁組でした。しかしまだ中学生だった私は(現在は改正されていますが)当時の「十五歳以下の養子縁組は親権者の意志によって決定される」という民法の規定上、自身の意思は一切考慮されず、正直大人の都合だけで私の気持ちなど完全に無視され、自分でも何がなんだかわからないうちに家裁で決定が下された養子縁組でした。
養親縁組先で私が遭った虐待という災難
芸能プロダクションに所属してアイドルを目指していることもあって、その頃の私は他の中学生に比べればかなり派手な容姿でした。そんな私を養母は「売春婦みたいだ、お前は男を誘っている」などと言いがかりをつけてはなじりました。
いっぽう養父はそれこそ養母の目を盗んでいるのか、それとも養母も共謀していたのかはわかりませんでしたが、中学生の私に性的虐待を繰り返していました。
中学生の私は避妊もしてくれない養父の行為にひたすら妊娠する恐怖に怯えていました。ところが、養父を拒否すると食事は勿論、生理用品を一切与えてもらえないのです。
思春期の私にはそれが本当に恥ずかしく、生理の時、出血を手当てするナプキンが欲しいがために、血まみれの状態で養父の要求に応じたこともあります。
養父母の仕打ちに困惑しまくっていた私は、当然学校の先生や保健室の先生に相談し、思い余って役所の相談電話に、泣きながら受話器の向こうの相談員に自身のつらすぎる現状を訴えました。
しかしながら、大人は誰ひとりとして私の話を真面目に聞いてはくれませんでした。養父母は具体的な会社名などは伏せますが…ふたりとも日本を代表する大手企業に勤めており、特に養父のほうは部長職に就く、地元でも有名ないわば名士だったのです。
そういう社会的に立派な人が子どもを虐待するはずがないじゃないか…と私はあしらわれ、時には虚言癖がある問題児のようにさえ扱われては非難されるだけでした。
実妹の私がそういう状況にあっても、自分に災難が降りかかるのを恐れてか、年の離れた大学生の姉はこれまた見て見ぬふりをしていました。姉は大学への通学の便を理由にひとり暮らしを申し出て、養父母も姉がアパートを借りるための費用や引っ越し代を黙って捻出していました。
恐らく姉も危険を感知して自宅から「逃げた」のでしょうが、とにかく、姉がいなくなると、私への虐待(としか思えないこと)はさらにヒートアップし、決して経済的に困窮した家庭ではないにもかかわらず、通学に必要なものも他の同級生のように揃えてはもらえない私は、何かにつけ惨めな想いを味あわされ続けました。
私服で参加と決まった遠足を(着ていける服がないために)必ず欠席する、体操着がパスンパスンに小さくなって、しかも破れているというのに新しいものに買い替えてもらえない、家庭科での被服の課題に必要なものを持っていけないから家庭科の授業だけを欠席する…そういう見た目でもわかるような顕著なSOSを呈しているにもかかわらず、学校の先生は養親の主張を鵜呑みにし、私が我儘で不登校しているのだと信じ切っていました。
言うまでもなく、私は家庭では養父に乱暴され続け、お父さんに「抱かれて」いる娘の私を目の当たりにしてお母さんは、助けてくれるどころか「不潔な娘、売女、他人の男を寝取る泥棒…」と思いつく限りの暴言を吐いていました。
また、私が三日はしかやインフルエンザにかかって寝込んでいても、養母はアフター5は頻繁に飲み会だといって深夜まで帰宅せず、伝染る病気だということでその間はセックスの相手ができない娘の私に対し、父は「使えない」と暴言を吐きました。
深夜、酒に酔った母はタクシーで帰宅。私は具合が悪くて高熱を出しているというのに、ふたりして「夜食の準備ができていない」と散々なじりました。
その頃、私は母が会社に持っていくためのお弁当を毎日早朝から作っていましたが、母の気に入らないおかずを作ろうものなら、母は「こんなもの食えるか!」と目の前でゴミ箱に投げ込んでみせました。…その手の体験談については本当に枚数に暇がなく、養子離縁した現在も、元養親に対し私は何ひとつ許す気持ちにはなれていません。
昨今では児童虐待に対しての考察も進んできていますが、専門用語で表現するなら姉は「愛玩子」一方、私は「搾取子」という奴だったのかも知れません。
そういう背景のもと私は自宅でも、時には学校内でも、パニック状態に陥って「ギャン泣き」しました。十四歳の少女にとっては激しく泣いて訴えることでしか自身のどうしようもない感情と、自分を夜毎襲う不条理な仕打ちに対する恐怖とを吐き出す術がなかったのです。
精神科病院に強制入院させられるまでの経緯
その日も私は養母にじくじくと執拗に責められていました。養母にとってはそれが娘に対する愛情であり「躾」だったそうですが、私は養母から「お前は万引きを繰り返しているだろう、私は知っているんだ」と事実無根の“罪状”を仕立てられてねちねちやられていました。
私はやはり激しく泣くことしかできませんでした。日々のあり得ない養父母の仕打ちに、心が折れた私はすでに言葉を以て反論することすらできなくされていたのです。
私が泣いているところにちょうど「○○保健所の保健婦(当時)です」と、ひとりの中年女性が“訪問”に訪れました。私はてっきり、近所の人が養親と娘の私との異常な状況に気づいて関係省庁に通報し、その結果保健婦さんが私を助けに来てくれたのかと思い込み、彼女の勧めるがままに白いワゴン車(だったと記憶しています)に乗り込みました。
しかし、私を乗せた車は山奥の精神科病院に向かっていました。「さあ、病院に着いたわよ」そう言われた私は、ふたりの男性看護師に取り押さえられ、一切の説明もないまま医師に注射を打たれました。
精神科保護室での処遇、そして薬の副作用
次に目を覚ました時、私は真っ暗な鉄格子のある部屋によくわからない変な病衣姿で放り込まれていました。よく見たら私は病衣の下に下着すらつけてはいませんでした(あとで聞きましたが、病衣には紐やボタンなどがなく、自殺防止に着せられるものだそうです。以前保護室内でブラジャーを使って首つりをした女性患者がいたことから、下着も脱がされるのだということでした)。
室内に備えつけられているものはベッドと和式の水洗便所(理由は後述しますが、自分では水が流せず、トイレットペーパーすらない)だけのまさしく「檻」であり独居房でした。
スタッフが廊下のガラス越しに私を覗いて「目が覚めたんだ」と一言口にしました。「どういうことですか?何もわかんないんですが」私がそう質問したところ、スタッフは「君はまだ反抗的だね。素直にならないと一生ここからは出られないんだよ」といって一旦立ち去ったかと思うと、またもや注射器を手にして現れ、私の病衣の下をズリ下げてお尻に注射を打ち、私は再び失神しました。
「檻」に入っている間、スタッフに話しかけるたびに反抗的だとされて、私はこの変な注射を打たれました。注射がイヤでギャン泣きして抵抗すれば、今度は医者が「薬が効かないんだね」といいながら足首に点滴の針を刺し、私は薬を体内に入れ続けられました。
注射や点滴を打たれるたびに私は幻覚を起こし、おかしな夢を見るようになりました。同時に身体全体が重く感じられるようになり、箸がうまく持てなくなりました(といっても食事は床に置かれるので、箸が使えない私はまさしく犬のように食べるしかありませんでしたが)。
次第に時間の感覚もわからなくなりました。初めは食事が運ばれてくるのでおよその時間の経過を推し量っていましたが、それすらできなくなった頃、私は失禁が始まってオムツを常時必要とするようになり、全身の筋肉が弛緩し始めて、自分の意思では身体がうまく動かせなくなりました。
それでもなお点滴と食後と寝る前の服薬が課せられ、中毒性があるのか私は薬が切れると、幻覚からパニックを起こすようにすらなっていました。
あとで知ったことですが私は養父母の同意のもと、精神科の強制入院形態の一つである「医療保護入院」という扱いで、行動制限を掛けられ「保護室」に(隔離)入院させられていたのです。
のちに開示を請求した当時のカルテには「自傷他害の虞があるため2週間保護室に隔離した」と記載されていましたが、当初の病名は「抑うつ神経症」であったはずにもかかわらず、保護室を出た時点では「精神分裂病」と書き直されてありました。
いずれにしても保護室を出た時点ですでに、私はうまく歩行ができず、口の筋肉が弛緩した若しくは拘縮してしまったらしく、呂律が回らず喋ることもままならなくなっていました。それが無理やり投与されていた薬のせいだということがわかったのは最近のことです。
実際、向精神薬を服用中の患者さんは全員といっていいほど呂律が回らない特徴を呈します。薬の副作用で顔や口元の筋肉に異常を生じるのが理由だそうですが、ひたすらアウアウ言っているようにしか聞き取れない彼らの言葉自体が、一般の方にはきっと理解できず会話が成り立たないだろうと思います。
精神科を退院しても、薬が切れるとものすごい幻覚が生じ、私は激しい頭痛に苛まれました。それが苦しくて病院に行き、精神科医の診察を受けると「薬が足りないんだね」とさらに向精神薬を追加処方され、どんどん薬への依存が進みました。
もっとも処方が多い時で、私は一日当たり40錠を超える向精神薬を服用していた時期もあります。禁断症状が強くなれば強くなるほど、医師は一言「薬が足りないんだね」とさらに増薬。私は苦しくてたまりませんでした。
薬の量が増えていくたびに、私は手足が震え(パーキンソンニズム)、眼球は無意識のうちに上に向いて顔の筋肉が引き攣ってしまい(ジストニア)、じっとしていられなくなって意味もなく室内をおぼつかない足取りでうろうろ歩き回るようになってしまいました(アカシジア)。
そして…私は薬の離脱による禁断症状の苦しさの余り精神科に再入院、というパターンを数十回繰り返しました。向精神薬は一度服用し始めたが最後、強烈な離脱症状と禁断症状に苦しめられ続けます。そして、断薬は本人の意思や努力に関係なくほぼ不可能な状態に陥ってしまうのです。
精神科閉鎖病棟で出会った患者さんとその末路
話を戻します。保護室を出た私が療養を続けた閉鎖病棟の病室には、私を含め6人の女性がいました。中年女性がふたり、私よりちょっとお姉さんといった感じの二十代後半の方がふたり、そして私ともうひとり一学年下の中学生の子が同室でした。
その頃はちょうど「うつ病は心の風邪」という製薬会社主導のキャンペーンがいろんなメディアで謳われ始めた時期でもあったせいか、他の患者さんもうつ病を疑って「早期治療」を念頭に精神科を受診したところ、そのまま入院になったというお話をされていました。
私より一つ年下の中学生の子がいましたが、彼女だけは私と同じような経緯を辿って精神科病院に入院になったようなことを言っていました。
彼女はお父さんが再婚し、新しいお母さんと義理のお姉さんができたそうなのですが、国立大学の法学部で学んでいるお姉さんが学業優秀なのに対し、普通にしか頑張れない自分は家庭内で疎外されているような気がして、何となく面白くないからと不登校に走ったところ、やはり保健婦さんが自宅に訪れて強制入院に相成った…と語っていました。
しかしながら話している限り、彼女はアニメとガーリーファッションが好きな普通のローティーンの女の子でした。
でも…結論からお話すれば、私が三十歳を過ぎた頃、どこにでもいそうな中学生だった年下の彼女は、向精神薬の副作用のために二十代後半の若さで認知症様の症状が表出し、意思の疎通が全くできなくなりました。
失禁がひどく、パニックに陥ると弄便の問題行動を起こすまでに混乱してしまうため、彼女は常にオムツを必要とし、着替えや洗顔、歯磨きなどの最低限の整容も自力でできず、入浴や食事もヘルパーさんの力を借りなければならないような姿になってしまいました。
私を含む他の5人は、全員向精神薬の影響による薬物性パーキンソンニズムを発症し、自力では歩けなくなって常時車椅子が必要になりました。精神科医療から逃げ出した私以外の方々は現在、その病院が併設している入所施設で介護を受けて生活しています。すでに鬼籍(亡くなる)に入られた方もいらっしゃいます。
私は二十一歳で自力歩行に問題が生じ始め、それでも杖を使って頑張り続けましたが、三十一歳から現在に至るまで、完全に車椅子での生活を余儀なくされています。アイドルの夢も当然果たされず……。
養親とも離縁した今、私は身体障害者手帳を取得し、精神障害者のそれよりも手厚い身障者向けの各種支援を受け、さらに障害者雇用制度を活用して職を得、単独で生活しています。
しかし、私と同時期に精神科病院で暮らしていた人たちの大半は、そのような制度の存在すらもご存じなく、ただ生活保護を受給するしかないと思い込んでいる(周囲の人も使える制度があることや申請方法や利用法を教えない、制度を実際に活用するには相当の手間を要するため、本人の力だけでは申請自体が難しい現実もある)様子です。
つらい記憶でしかない精神科閉鎖病棟での生活の実際
精神科閉鎖病棟に対しては嫌な記憶、つらい思い出しかありません。
医師に自身の受けている治療の内容について説明を求めたり、スタッフに少しでも反抗的な態度を示せば、懲罰として保護室に入れられたり、拘束具をつけられてベッドから動けないようにされました。
保護者(私の場合には養親)の意思のみで強制入院させられている以上、患者本人には「判断力自体がない」と見做されていて、そこに私たち患者の気持ちなど一切無視されているのです。多量の向精神薬をスタッフの目の前で服薬しなければならない(ちゃんと服んだかどうかスタッフが確認し、少しでも拒否すればさらに増薬される)毎日のなか、薬のせいで判断力自体が鈍っていきました。
私含め入院している患者全員の、院内での唯一の楽しみは食事でした。私が入院していた頃は、ご自身の家庭を含め社会的な行き場、帰るべき場所をなくして、その結果精神科病院に数十年に亘り、入院を余儀なくしている患者さんも少なくはありませんでした。
全員溜まったストレスを発散させられる場所もなく、薬の副作用で判断力も理性も奪われている患者たちは、時に食べ物を小遣いとして一日当たり百円程度渡されるお金(精神科では患者の小遣いも病院が管理している)でやり取りしていました。
食事の時間、しばしば「事故」が起こりました。先に向精神薬を多量に服用すると、口やあごの筋肉が弛緩したり拘縮したりしてうまく喋れなくなるとお伝えしましたが、薬を服み続けると嚥下機能もおかしくなるみたいなのです。
特にパンや麺類の食事は危険で、パンが喉に詰まって窒息する事故、麺類が飲み込めずに鼻の穴から出て…それだけならギャグみたいな光景ですが、飲み込めないまま死亡された患者さんもいらっしゃいました。
お正月のお餅なんてもってのほか、まるで認知症の患者さんの食事光景を想像して頂ければいいと思うのですが、精神科病院での食事は事故防止の観点から「刻み食」や「ソフト食(ペースト状のもの)」が供される場合も多かった記憶があります。
20年以上向精神薬を服用させられた私自身、精神科医療を離れて断薬した後も、嚥下機能がうまく働きません。今も自身で作る食事には全て片栗粉でとろみをつけています。でないと飲み込めず事故に繋がる危険が高いからです。
この間も…今日はひとりじゃないし大丈夫だよね、と油断して知人と一緒にカレーうどんを食べていたところ、うどんの麺がうまく飲み込めず鼻から出したまま私は失神、気を失ったまま派手に失禁するという事態に陥り、一時大騒ぎになりました。
向精神薬を服んでいると、満腹中枢がいかれて幾ら食べても満腹感が得られません。私自身、十四歳で精神科に入院した当時は38キロしか体重がありませんでしたが、たった2年で96キロにまで太りました。満腹中枢が故障すると、自分の意思では異常な食欲をコントロールできないのです。
患者さんのなかには、空腹からトイレットペーパーを食べる人もいました。異食防止のために、トイレに行く時にはスタッフ同伴、または詰所にいちいち声をかけた上、スタッフから必要な分のトイレットペーパーを手渡されることが院内ルールで決められていました。
また薬を服むと、なぜか異様に水が飲みたくなりました。水を飲まないと気持ち的に落ち着かなくなってしまいます。患者の間ではこの症状を水中毒、と呼んでいましたが、余りに水が飲みたくて、一日10リットル以上の多量飲水をし、結果保護室に入れられたら、水への禁断症状を呈して水洗便所の水を飲む人(そのため保護室では用を足した後にも自分で水を流せないようになっていたのです)や、水分の摂り過ぎで脳髄液が薄まって死亡する人も見受けられました。私自身、水の飲み過ぎでこれまで実際に数回意識不明の状態に陥りました。
当時入院していた精神科病院の病床数は、全病棟あわせて156床だったと記憶していますが、精神科病院は急性期の重篤な病状の患者を扱うような救急病院でもないというのに、最低毎日一人は入院患者さんが亡くなっていました。今思えば、割合的にすごく多い死亡者数だと感じます。死亡の原因の殆んどは「心筋梗塞」もしくは「心不全」とされていましたが、向精神薬の副作用のひとつに、心臓疾患の誘発があるという事実も退院してから知りました。
入院中、スタッフが男性患者を殴っている様子も何回となく目の当たりにしました。或いはスタッフの目を盗み、あるいはスタッフの目の前であっても、理性の働かない男性患者が女性患者に暴行を働くことも日常茶飯事でした。
若しくは比較的症状が軽い男性患者数人が、重症の女性患者をみんなで騙して呼び出しては性的虐待、ということも一度二度ではなかった記憶があります。
私も数回病院内で男性の患者に乱暴されましたが、精神障害者による犯罪行為は殆んど刑法の範疇で裁かれないせいもあるのか、スタッフも乱暴する患者の家族も見て見ぬふりです。なかにはレイプのせいで妊娠してしまう若い女性患者さんも数人いましたが、保護者同士の示談で解決、なかったことにされていました。
精神科医療の地獄から逃げ出せたけれど、今も感じる生きづらさ
このままでは殺されると思った私は、ある時、意を決して、この異常だとしかいえない病院での日常から逃げだしました。長くなるので逃げた時の経緯については別の機会でお話ししたいと思いますが、その後も薬を中断したことによる離脱症状に私は苦しみ続け、30回以上繰り返した精神科への入退院は、私から年齢相当の生活能力や他者とのコミュニケーション能力をおもむろに奪ってしまいました。
どうにか一般の社会に帰ってはきたものの、私はひたすら生きづらさばかりを感じ、時にはあのまま病院内で死んでしまったほうがマシだったのかな…と思うほどです。
本当に自傷他害の症状を示す精神障害者も少なくはなく、そういう方に対してはきちんと必要な治療を施し、適切な量の向精神薬の投薬も一定期間は必要だろうとは思います。
しかし、家庭の都合などで本人の意思に関係なく精神科に放り込まれ、帰る場所を失ってしまったたくさんの人たちの、顔や薬の副作用によるうつろな瞳を思い出す時、私は今でも苦しくなってしまいます。
平成26年(2014年)4月に精神保健福祉法が改正され、私の上に降りかかった災難のような「医療保護入院」についても、見直しがなされたと聞きました。かつて、私が精神科病院で体験した様々なつらい記憶が、35年を経た今ではもうただの「昔話」ならばいいのですが、現在でも精神病院では多数の人が亡くなっている事実は変わっていません。
あるいは、運悪く私の入院していた精神科病院の医療の質がたまたま最悪だったとか、そういうことであればまだ救われるのですが、そういうことでもありません。
これらの重い過去に対する反省を礎に、現在の精神科病院は真に社会に開かれていて、適切かつ良質な医療が提供されている。そう私は嘘でもいいから信じていたいのです。
平成26年の法改正によって、スローガンだけは「精神障害を抱えていても地域で当たり前に生きよう」という立派な理想が謳われ、これまで長期入院を強いられていた精神科患者の半数以上が(本人の希望に関わらず)精神科病院を退院して形だけの「社会復帰」を果たし、街に帰りました。
しかし、現実にはなんの支援も(事実上)ないままに、いきなり社会に放り出された長期入院患者さんも多く、調理や掃除洗濯、最低限の金銭管理といった日常生活のスキルさえ身に着けられずに「地域で暮らさ」ざるを得ない、そんな彼らの日々の困惑や生きていく上での困難も相当のものだと聞きます。
そういう意味において、私が味わった悲惨な体験はまだ何一つ終わってはいないんだ。閉ざされた精神科医療によって、自分の人生を狂わされたとしか受け止められない私は、今日も車椅子の上でやり切れない怒りに心を乱され続けています。
[参考記事]
「精神病院での暴力は当たり前」
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