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虐待された児童には喘息が多い?気管支喘息と児童虐待の相関

この記事は50代の女性に書いていただきました。
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業界誌に見つけた「気管支喘息と児童虐待との相関が」という記事

先日、私が発達障害の認知行動療法や二次障害の治療に通院している心療内科においてあった医療業界誌に「気管支喘息と児童虐待には相関がある」という記事が載っていて、興味深く読んだことがありました。

「虐待が原因で施設に入所中の児童には喘息の子どもが多く、女児に至ってはほぼ全員に喘息の履往歴が認められる」という内容です。

記事の真偽を確かめたくてソースを探してみたら、名古屋に、心療内科的見地から喘息などのアレルギーの治療を行う医療機関として大変有名な「久徳クリニック」というアレルギー科専門医院があります。

医療法人健育会 久徳クリニック
〒465-0025 名古屋市名東区上社5-201
052-703-5510

その後、もっと医学的な見地からの詳細を学びたかった私は、久徳クリニックの医師で、人間形成医学と「心身両面のたくましさ」を提唱されている久徳重和先生(アレルギー喘息等の専門医・人間形成障害の治療をご専門とされる)、そして兄でクリニック理事長、久徳知裕先生の著書を拝読いたしました。

久徳先生はたくさんの本をお書きになっていらっしゃいますが、個人的には1982年から定期的に出版されている、以下の「ぜんそくジャーナル」が、先生のご主張を知る上で最も参考になるかと感じています。

久徳重和先生の「ぜんそくジャーナル(正式名称「ぜんそく征服ジャーナル」)120号より抜粋
http://www.kyutoku-clinic.or.jp/html/jar/jar/120_zensokuwosaguru.htm

さらに資料となる書物やテキストを探してみました。そのなかでも自らも壮絶な虐待の経験をお持ちの女性で、現在は三児の母であり、兵庫県児童虐待等対応専門アドバイザーを務め、一般財団法人児童虐待防止機構オレンジCAPO理事長でもいらっしゃる島田妙子さんの公式サイトとblog記事。

ご自身の虐待の経験やつらい記憶を、転じて未来へとプラスに活かそうとされる彼女の半生、そして現在の島田さんのご活躍を紹介した数々の新聞記事や雑誌などの記事を多数拝見しました。

一般財団法人児童虐待防止機構オレンジCAPO
〒541-0053 大阪市中央区本町1丁目2-1
06-6809-7440
https://www.shimadataeko.net/

島田さんは幼少期に彼女が受けた「死にかけたほどの」虐待から来るご自身の、若しくは島田さんがこれまで扱ったケースでの、心理的ストレスから生じた喘息の症状について、各方面でお話されています。

これまでに島田さんがこなされた数多くの講演会やメディアでも、虐待の心のみならず身体にも及ぼす悪影響を強調しつつ訴えられ、あるいはご自身の著書のなかで克明に記されていらっしゃいます。

ほかにも検索エンジンで「子ども 喘息 虐待」で調べてみました。すると、やはり幼少期に過干渉や過保護、あるいは放任主義を超えたネグレストを受けたなどの、いわゆる「毒親育ち」の子どもだったがために、家庭の中で常にストレスを感じ続け、それが身体の症状としての気管支喘息として表出した方の体験談が数多くヒットしました。

インターネット上には子どもの頃から(特に母)親との関係に苦しみ続け、成人後の現在もなお喘息の症状が出て悩んでいる方(主に娘の立場)のblogも多く存在します。

自身の経験を鑑みても気管支喘息と虐待が無関係とは思えない私

「気管支喘息と虐待には相関がある」というテーマについては、私自身の経験を鑑みても頷ける部分があります。

言われてみれば、今まで知り合った女の子の顔を思い浮かべると、虐待サバイバーの施設やシェルターなどDV支援施設で知り合った友人知人、虐待や家庭不和によって精神疾患を生じた友人は全員喘息の履往歴を持っていました。

私自身と同じように虐待が理由で児童養護施設に入所していた女の子、親(特に母親)娘の問題でメンタル的に不調に陥って精神科病院に長期入院していた女性患者、DV支援施設で仲よくなった私の女友達…はなぜかみんな喘息持ちなのです。

子どもの時から性的虐待を含む暴力を受け続けた私自身、幼少期から続く気管支喘息で悩んでいます。

虐待だけが原因じゃない!親からの強い愛情が裏目に出て病気になる子

さらに私は小学校からの記憶に残る同級生を思い浮かべました。考えてみると、喘息や他の問題を示す子というのはあからさまな虐待や毒親育ちの子に限らない気がします。

中学受験の対策に必死…など親御さんがやたら教育熱心過ぎる場合、ピアノやプロを目指すようなスポーツなど、親御さんのほうが芸事に夢中で、他の遊びは子どもに対し一切許可しないといった、厳しいおうちの同級生にも喘息の子が多かった印象があります。それらはいわゆる「過干渉」というものなのでしょうか。

あくまでも私の個人的な印象を申し上げるならば、女の子の喘息持ちは(私の知り合いの範疇に限っていえば)私と同じような成育歴&生活歴を背負っているケースばかりです。しかしながら男の子の「喘息君」は専ら、過干渉の親御さんから受けるストレスで心身ともに不調…という例が多かったように感じています。

子どもは追い込まれると、防御反応として心身に不調をきたしてしまうのでしょうか。そのひとつの例として「喘息」があるのでしょうか…?

心療内科で治療中。毒親やDV夫から離れた後も喘息の症状が出る私

毒親や暴力を振るう夫から逃げたのちの自分自身を顧みたいと思います。

被虐待児だった私も未だに持病として気管支喘息の症状があります。個人差が大きく、有効な治療といっても患者さんによるだろうとは思いますが、私自身はステロイド吸入を行うと余計に喘息が悪化しました。

おとなになってからも季節の変わり目には喘息の症状が残る私は、喘息を心療内科で治療しています。

ちなみに、お世話になっている心療内科にはメンタル的な不調と、喘息やアトピーといったアレルギー性疾患とを同時に治療されている患者さんが多くいます。心療内科医の治療だけではなく、精神科医からの加療を併せて受けている患者もかなりいます。私もそのうちのひとりです。

そういった患者さんの殆んどは若い女性ですが、私の年代の女性や男性の患者さんも一定数通院されています。

通院中の心療内科で、現在の喘息の主治医曰く「一種のアレルギーだから身体をアレルゲンに慣らしていくことも必要」と、そうおっしゃって私にふたつの新聞記事のコピーを提示しました。

ひとつは「気管支喘息の女性はほぼ確実に母親との関係が悪い」という命題を研究している医師の話、もうひとつは「猫を飼うことによって喘息の症状が軽減する実験結果」についての海外での研究報告でした。

「猫を飼うと喘息が収まる」本当の理由

実際に、私は喘息がひどいと成人後に「パパ」のポジションを務めて頂いているステップファミリーの父のもとで飼われている猫たちを数日間抱っこして過ごしています。

考えてみれば、当初は「パパ」のもとで猫と遊ぶことが、単純にストレス発散になるからというのが私自身の理由であり他意はありませんでした。

しかし、思い起こせばかつて一時期「パパ」やパパの家族と猫に囲まれて暮らしていた期間は、一度も喘息発作を起こしませんでした。

その頃、猫たちにごはんを上げるのは私の担当でした。私が寝込んでしまったら猫たちはひもじい想いをするんだ、という感じで気が張っている状態もいい意味でのストレッサーでした。当時は私は喘息の症状以外に、やはり子どもの時から続くてんかん発作も起こさずに過ごせていました。

その代わり、仕事の事情等でパパのもとを離れ、猫のいないひとり暮らしに戻した一か月後に、私は職場で喘息発作を起こして救急搬送、そのまま入院になった経験もあります。

それらを考え合わせると、単純にストレスが喘息はじめいろんな病気の原因になると断言するのは早計なのかもわかりません。ストレスにもいろいろあって、ひたすら自分が苦しめられるだけのストレッサーは心身に悪い影響を与えるのは間違いありませんが逆に自分に適切な役割が与えられ、家庭をはじめとする居場所の中で「私は存在として望まれているんだ」と強く実感できるような、ポジティブになれるストレッサーであれば、それはお薬以上の効果を示す「プラセーボ」だといえるのかも知れません。

親の愛情と責任感が子どもをスポイルしてしまうのか?

私の周囲には、熱心に子育てを努力したのに子どもはひきこもりになった、不登校になった、若しくはメンタル不調を呈した…というケースはいっぱい見かけます。

それらの子どもを育てているお母さんは、押し並べて高学歴であり、教諭や保育士などの専門職を経験された女性も少なくありません。

我が子への愛が強いことにプラスして、彼女らは余りに教育者としての知識や経験が豊富なために、おうちでもお母さんではなく「先生」として振舞ってしまわれるのでしょうか…?

私は子がなく、だからこそ育児という問題に対しては傍観者でしかないので、無責任な発言だとお叱りを受けてしまいそうですが、子育てというのは本当に難しいミッションなんだなあと、それ以上の言葉が出てこないのです。

スーパーでよく見かける光景を通して虐待という問題の本質を考えた体験談

いっぽう、虐待という問題についてはどうなのでしょう。私がスーパーに買い物に行くとよく見かける光景の一つとして、ギャン泣きして手のつけられない幼児と、それをひどい言葉で怒鳴りつけ、最終的に泣いている我が子を放置するお母さんの姿があります。

恐らくお母さんにも理解できないような理由で、幼児は地団駄を踏み、スーパーの床にひっくり返って激しく泣き騒いでいます。対して、お母さんのほうも、その状況に対応できずに(パニック状態に陥っているのか)子どもに対して「もうこんな子はママ知らない!」「どっかいっちゃえ!」「○○ちゃんなんかママも大嫌い!」等々…傍から聞いていてもつらくなるような台詞を我が子に次々ぶつけています。

私を含め、見ているギャラリーはどうしようもできずにその場からフェイドアウト。子どもはそのまま泣き叫び、お母さん自身も周囲からの(ある意味冷たい)視線にもはや泣きそうな表情です。

このようなシチュエーションは私に限らず、皆さんも街でよく見かけがちなものではないでしょうか。

その日も買い物に行くと、夕暮れのスーパーの床に転がったまま泣き叫ぶ三歳くらいの女の子と、いうことを聞いてくれない我が子を怒鳴りつける母親の姿がありました。

お母さんの(母親とは思えないほどのすざましい)罵声に、居合わせた他の買い物客も一同フリーズしている状態でした。

ところがそこに(認知症の症状で徘徊するので近所でも有名な)八十七歳のおばあちゃんが何食わぬ顔で近づくと、泣きそうな顔で我が子にひどい言葉を浴びせ続ける母親をいきなりハグしました。予想外の展開にギャラリーは皆「目がテン」になっていましたが、おばあちゃんはお母さんを抱きしめてこういうのです。

「きっとあんたもつらかったんだね、泣いていいよ」

本当にいっぱいいっぱいだったのでしょう。お母さんは小柄なおばあちゃんの腕から身体をはみ出させながら、もう加齢で薄くなったその胸を借りて声を上げて泣き続けていたのです。

「追い込まれる親」を追い込まない社会に必要な視点

その状況を見続けていた私はハッとしました。今、いろんな場所で「虐待防止キャンペーン」が謳われ、行政や各団体が中心となって、子どもたちを虐待から守るための取り組みを進めているのはニュース等で知られる通りです。

ただ、その努力が適切に子どもたちや育てている保護者の方々に届いているとは言い難く、今日もどこかで一番信頼すべき親からの虐待に泣いている子どもがいるのは残念な事実です。

そのような観点から子どもを守る取り組みというのを本質的に捉え直す時、もしかしたらこの…近所でも「ボケちゃったよね」と噂されているような年老いたおばあちゃんこそ、本当は一番大切な「子ども虐待防止」に有効な介入方法を知っていたといえるかも知れません。

お母さんもまた「我が子は優れたいい子に育てなければいけない」という社会からの有言無言の圧力に疲弊しきっているのです。

自分で望んで産んだ以上、子どもは立派な人物に育てることこそ(母)親の使命であり責任である。そのような考え方は正論ではあり、子育てにおける美徳的な目標でしょう。ただし、立派な理想は時に人間を疲弊させるのです。真面目な人こそ理想と現実のギャップに悩むことも皆さんがご存知の通りです。

その「親としての苦しみ」が子どもに虐待という形で向けられてしまうのが、この社会の中での皮肉な現実です。

もしくは子どもに対して、保護者としての理想を押し付け、過干渉や過保護といった形で接し、結果的に我が子をスポイルしてしまうケースも「親としての使命や責任」といった社会からの圧力から来る、いわば「歪んだ」愛情の表出でしょう。

子どもを本当に守るためには、その親御さんに社会的孤立感を与えないことと「親だから」という言葉で過剰に責めない社会を実現させることが何よりだと思います。

子どもがいない私なりに考えること、実践していること

私自身には子はありません。ただ、子どもは社会が育てるという視点も重要だと私は強く思っているので、自身も毒親育ちである経験をプラスに活かして、同じような成育歴をお持ちの若いお母さんの話し相手になっては、間接的に子育てに触れています。

時には(私は保育士資格を持っているので)子どもさんを一時的にお預りした上で、お母さんにはお友達とお茶を楽しんで頂いたり、普段は子育てで忙しくて行けない美容院で髪をカットして来ていただいたり、ひとりの女性として息抜きして頂いています。

とにかく「自分には関係ないから」と傍観する姿勢が一番よくないと感じるのです。私が虐待される子どもの立場だった時、私が周囲に助けを求めても、周囲の人は見て見ぬ振りをし続けました。虐待そのものも本当につらかったのですが、助けを求めても誰も助けてくれない、そんな状況が少女の私をひたすら絶望に突き落としました。

先日お見かけしたあのおばあちゃんが全く他人の若いお母さんを「あんたもつらかったんだね」と抱きしめていたように、かつて、親はじめ大人からの暴力に泣いていた少女の私を、アラフィフになった私が「泣いていいよ、守ってあげるよ」と抱きしめてあげる代償として、私は自分自身に対してこう願うのです。

「いい親にならなければいけない」という社会的な規範に苦しみ、その矛先を愛すべき我が子に向けているお母さん、そしてお父さんたちのひとりでも多くを「つらかったんだね。大丈夫だよ、泣いていいよ」と抱きしめてあげられるような私でいられますように…と。

子育ては社会の責任。子の有無に関わらず自分ができる取り組みをしよう

子どもにみられる気管支喘息の原因が全て、虐待をはじめとする親の問題の多い養育方法にあるとは私も考えていません。

病気はいわば何らかのお知らせでありSOSです。だからこそ病気の発症に至るまでにはいろんな問題が複雑に絡み合っていて、そこには子ども虐待や不適切な養育から生じる子どものストレスも、原因の一つとして含まれていると考えたほうが妥当でしょう。

しかしながら、子どもを健全に育てるには、実際に子育てに当たる保護者に対する社会の包括が不可欠であり、子の有無や老若男女を問わず、子どもはみんなで育てていくものだという視点がとても重要だと感じるのです。

痛ましい虐待のニュースに「子どもが可哀想に」といい「こいつは親じゃなくて鬼だ」だと加害者を非難しているだけではきっと何も変わらないのです。

すぐには行動に移せないとしても、一人ひとりが「子育ては社会全体の問題であり、私自身も子育てに何かしらの形で携わるのだ、繋がっているのだ」という当事者意識を持つことから始めれば、いろんな意味で泣いている子どもも、苦しむ親をも救われていくと私は信じています。

その先にある目標みたいなものとして、ストレスから生じる子どもの気管支喘息の症例も少しずつ減っていくといいな。自身も喘息持ちであり、虐待から生き延びたサバイバーのひとりとして私はそう考えています。

[参考記事]
「喘息の薬フルティフォームの副作用により呼吸困難に」

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